世界が注目する素粒子物理学の最新成果
素粒子物理学の世界で大きな話題となっているのが、2025年度のブレークスルー賞基礎物理学部門での欧州合同原子核研究機関(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を用いた国際共同研究グループの受賞だ。この受賞には日本の研究機関や企業の技術力が大きく貢献している。
ブレークスルー賞は米Googleの創設者らが出資し、「シリコンバレーのノーベル賞」とも呼ばれる権威ある科学賞で、ノーベル賞の前哨戦としても知られている。今回の受賞は、物質を構成する最小単位である「素粒子」の研究で画期的な成果を上げたことが評価されたものだ。
この賞は「新しい発見」や「飛躍的な進歩」を意味する「ブレイクスルー」という言葉に由来し、基礎物理学、生命科学、数学の3部門からなる。各部門の賞金は300万ドル(約4億4千万円)と、ノーベル賞の約3倍という高額な学術賞である。
CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)が切り開く新時代
LHCは世界最大かつ最も強力な粒子加速器であり、全長27kmの加速器リングを通じて陽子ビームを加速・衝突させる巨大な実験施設だ。2022年に3年以上のシャットダウン期間を経てアップグレードされ、現在は13.6兆電子ボルト(13.6TeV)という世界最高エネルギーでの衝突実験が行われている。
2022年7月5日には、LHC上に設置された各検出器が世界初となる13.6TeVでの高エネルギー陽子陽子衝突事象の記録を開始し、素粒子物理学の新たな時代が幕を開けた。このエネルギー領域での実験により、宇宙の謎を解き明かす重要な手がかりが得られると期待されている。
今回のブレークスルー賞受賞の背景には、CERNで行われている四つの主要実験(ATLAS、CMS、ALICE、LHCb)の成果がある。特に2012年には、これらの実験を通じて「ヒッグス粒子」の存在が確認され、翌年にはこの粒子の存在を理論的に予測したピーター・ヒッグス氏らがノーベル物理学賞を受賞した。
日本の技術力が支える国際共同実験
注目すべきは、この世界的な素粒子研究プロジェクトに日本の研究機関や企業が重要な貢献をしている点だ。特に高エネルギー加速器研究機構(KEK)などが参加する実験では、装置の開発・建設において日本の技術が生かされている。
この国際共同研究には約1万3千人の科学者が参加しており、受賞による賞金は若手研究者への助成に使われる予定だ。日本からは200人以上の研究者が参加し、CERNの素粒子物理研究の最前線で活躍している。
日本の貢献は研究人材の提供だけではない。LHCの超伝導電磁石の開発・建設には、KEKをはじめとした日本の研究機関や企業が数多く携わっている。具体的には、高速で動く粒子を絞り込んで衝突頻度を向上させるために必要な磁石を、東芝や古川電工などの日本企業が開発した。
さらに、素粒子の検出装置や検出に使う大量の半導体、大型計算機などの開発・製造においても日本企業の技術が活用されている。ATLAS実験で使われている検出器の一部には、日本が開発した半導体が採用されており、その精度の高さが実験の成功に貢献している。
KEKの中本建志教授は「加速器用の磁石の製造には、高いレベルの技術力や工業力が必要だ。日本のモノづくりが生かされた」と強調している。
さらなる宇宙の謎に挑む素粒子物理学
現在のLHCでの実験は、「Run3」と呼ばれる第3期運転期間に入っており、これまでの実験期間よりも多くの衝突データを収集することが期待されている。ATLAS検出器とCMS検出器では、これまでの2回の物理ラン(Run1・Run2)で取得したデータ数の合計よりも多くの衝突事象を得られる見込みだ。
このような膨大なデータを基に、研究者たちはヒッグス粒子のさらに詳細な研究や、素粒子物理学の標準模型の厳密な検証を進めている。また、暗黒物質の正体解明や、宇宙になぜ反物質ではなく物質が多く存在するのかという謎に挑んでいる。
LHCを用いた実験では、2021年には初めてニュートリノ反応候補の検出にも成功するなど、次々と新たな成果が生まれている。日本からは九州大学、千葉大学、KEK、名古屋大学の研究者らがこの実験に参加し、重要な役割を果たしている。
次世代加速器への展望
CERNではさらに将来を見据え、LHCの後継となる次世代加速器の計画も進められている。2019年には「Future Circular Collider(FCC、未来円形衝突型加速器)」の建設プロジェクト概要が発表された。全長100kmという現在のLHCの約4倍の大きさを持つこの加速器は、2050年代後半の稼働を目指して開発が進められている。
一方、日本でも国際リニアコライダー(ILC)計画が検討されており、こちらも国際協力のもとで次世代の素粒子物理学研究を推進するプロジェクトとして注目されている。
AIも活用される最先端研究
最新の素粒子研究では、実験装置の開発だけでなく、膨大なデータ処理や分析においても革新的な技術が導入されている。CERNでは人工知能(AI)技術を活用した将来予測システムも導入されており、超大規模な実験のミッションをサポートしている。
このようにCERNの素粒子物理学研究は、物理学の発展だけでなく、情報技術の進歩にも貢献している。かつてはCERNでWorld Wide Webが開発されたように、今後も様々な技術革新が生まれる可能性がある。
解説:素粒子物理学とは
素粒子物理学は、物質を構成する最小単位である「素粒子」の性質や相互作用を研究する学問分野です。現在の標準理論では、物質の基本構成要素として「クォーク」と「レプトン」という二種類の素粒子が存在すると考えられています。
クォークは6種類(アップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトム)あり、これらが組み合わさることで陽子や中性子などのハドロンと呼ばれる粒子を形成します。レプトンには電子やミューオン、タウ粒子とそれぞれに対応するニュートリノがあります。
さらに、これらの素粒子間で働く力(相互作用)を媒介する「ゲージ粒子」と呼ばれる素粒子も存在します。電磁力を媒介する光子、弱い力を媒介するW粒子とZ粒子、強い力を媒介するグルーオンがこれにあたります。
2012年に発見されたヒッグス粒子は、他の素粒子に質量を与える役割を持つとされる特別な粒子です。その存在は1960年代に理論的に予測されていましたが、実験的な確認には約50年の歳月を要しました。
解説:大型ハドロン衝突型加速器(LHC)とは
LHCは周長27kmの円形加速器で、内部を時計回りと反時計回りに陽子ビームを加速して、ほぼ光速に近い速度で衝突させます。この超高エネルギーの衝突により、通常では観測できない素粒子を一瞬だけ生成し、その性質を調べることができます。
LHCの内部は超高真空状態に保たれ、陽子ビームは超伝導電磁石によって軌道上に保持されています。これらの超伝導電磁石は絶対零度近く(約-271.3℃)まで冷却されており、このような極低温技術も加速器の重要な要素です。
衝突点には巨大な検出器が設置されており、ATLASやCMSなどの実験グループはそれぞれ異なる検出器を用いて観測を行っています。これらの検出器は衝突によって生じる素粒子の軌跡、エネルギー、電荷などを精密に測定し、どのような反応が起きたかを再構成します。
LHCの実験では1秒間に数億回もの陽子衝突が起こり、生成されるデータ量は膨大です。このデータ処理には世界中の研究機関をつなぐグリッドコンピューティングシステムが活用されています。
解説:ブレークスルー賞とは
ブレークスルー賞は、2012年にロシアの物理学者で投資家のユーリ・ミルナーによって創設された学術賞です。その後、Googleのセルゲイ・ブリン、Facebookのマーク・ザッカーバーグらシリコンバレーの著名企業家も出資者に加わりました。
この賞は基礎物理学、生命科学、数学の3部門で構成され、各部門の賞金は300万ドル(約4億4千万円)とノーベル賞の約3倍にもなります。受賞式はハリウッド映画のような華やかなセレモニーで行われることから「科学界のオスカー」とも呼ばれています。
ブレークスルー賞はノーベル賞に比べて新しい賞ですが、受賞者の多くがその後ノーベル賞を受賞することもあり、「ノーベル賞の前哨戦」と見なされることもあります。実際に、日本人研究者では山中伸弥氏や大隅良典氏もブレークスルー賞を受賞した後にノーベル賞を受賞しています。
今回のCERNの実験グループへの授与は、素粒子物理学における国際協力の重要性と、その成果の科学的価値の高さを示すものと言えるでしょう。